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醜いタテカンは要らない

大学という空間は本当に異常なところで、と云ってもヤクザまがいの日本大学のことではなく、我が母校・京都大学のことだ。

京都大学の学風は「自由」であり、その学風が豊かな学問的実りをもたらしてきた。しかし、その「自由」を現在の学生たちが正しく活かせているかは疑問だ。

京都大学といえば、公道沿いの塀に立てられた学生自作の看板(タテカン)を思い出す人も少なくないだろう。中には惚れ惚れする出来栄えのものもあるが、字体も内容も安保騒動や全共闘の時から変わらぬ代物もある。

このタテカンについて、景観美化を求める京都市の意向を受けた当局は看板の掲出場所を校内に限り、大きさについても制限を課すべく規程を設けたが、これに対して一部の学生が抵抗しているという。タテカンの掲出じたいが禁止されたわけでも、内容に対する検閲が行われたわけでもないのに、「表現の自由」を侵されたと騒ぎ立てているようだ。

反対運動の一貫として学内で開催された講演会では、先号の巻頭論文で批判した白井聡が「タテカン・改憲・国体」と題し、資本主義に取り込まれた「国体」に抗うものとしてタテカンを称揚したという。詭弁も極まれりと思うのは私だけであろうか。

『国体文化』〔平成30年7月号〕

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