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第49回憂国忌シンポジウム「三島由紀夫の天皇論」要旨

2月19日・22日発行の三島由紀夫研究会ニュースレター に昨年11月25日に開催された憂国忌シンポジウム「三島由紀夫の天皇論」の要旨が掲載されているので転載します。金子の発言部分は太字で表記してあります。

【昨年11月に催行された第49回憂国忌では「三島由紀夫の天皇論」と題して1時間40分にわたる討論がなされた。弊会事務局の菅谷誠一郎が司会を務め、弊会並びに三田文学会会員・藤野博氏、里見日本文化学研究所所長・金子宗徳氏、展転社代表取締役・荒岩宏奨氏の三氏がパネリストとして登壇した。以下、その概要である。】

冒頭で、司会の菅谷からは令和最初の憂国忌シンポジウムにおいて、三島の文学や思想を理解する上で重要な要素である天皇を取り上げる目的が述べられた。すなわち、平成という時代は様々な意味で変動の激しかった時代であり、東日本大震災直後における当時の天皇陛下はじめ皇族方の被災地に寄り添う姿、御譲位の意思表明をめぐる論議、御即位祝賀の式典など、ここ数年の間に日本人が天皇や皇室の在り方を考える機会に恵まれた。名古屋大学准教授・河西秀哉氏(日本近現代史)が『産経新聞』に寄せたコメントで、「平成のときは、崩御した昭和天皇をお悼みする雰囲気もある中、厳かに行われ、昭和から平成へ、時代が確かに引き継がれるのを実感した」が、「今回の代替わりは上皇さまがご健在のうちに行われ、悲しみの要素がなく、国民として歓迎ムードで迎えることができた」と述べていることを紹介した上で、このシンポジウムでは三島の求めた日本の形を天皇という側面から検討する場にしたい旨が述べられた。

まず、登壇者に対しては、それぞれの世代や専門分野を加味する形で、令和という時代の始まり、その中で三島の天皇論をどのように意義付けるのか、という問いが菅谷から投げかけられた。

登壇者の中で最年長者は昭和18年生まれの藤野氏であり、高等学校教員を定年退職後に刊行した著書『三島由紀夫と神格天皇』、『三島由紀夫の国体思想と魂魄』(いずれも勉誠出版)では三島における天皇の描写や国家論の形成をたどっている。藤野氏は菅谷への答えとして、昭和は前半が戦争に象徴されるように政治が猛威を振るい、後半の戦後は経済が中心の時代であったとし、平成は引き続き経済が中心でありながらも、二つの大震災により、経済と自然がせめぎ合った時代と定義した。また、三島は昭和という一つの時代を生きながらも、敗戦をはさんで戦前と戦後という、まったく異なる時代を生きたことこそ、三島の精神と思想を解く鍵であり、天皇との関係にも深い影を落としたと指摘した。その上で、三島が天皇に言及した42の作品の中からエッセイ「二・二六事件と私」を引用し、三島にとって天皇という存在は戦前と戦後をつなぐ「岩盤」のようなものであり、自らのアイデンティティを保つものであったと評した。そして、戦後の三島に大きな影響を与えた時期が昭和35年以降の10年間であったとし、60年安保、大学紛争、70年安保などを契機とした社会的活動がこの時期に重なることや、三島ほど時代と深く関わり、天皇を自分という存在の根拠にした作家がいないと評した。その上で、三島が『文化防衛論』の中で天皇の祭祀、特に大嘗祭を重要視し、現行憲法との政教分離規定との関係に絡む課題克服の必要性を指摘していたことは今日的な問題提起に相当すると指摘した。

戦前に国体憲法学を提唱した里見岸雄の系統に連なり、現在、里見日本文化学研究所第三代所長、日本国体学会『国体文化』編集長、亜細亜大学非常勤講師(日本思想史)を務める金子氏は昭和50年生まれであり、平成の御代替わりの時は中学1年生であった。金子氏は、その当時の記憶と比較すると、今回の御代替わりに悲哀の要素はなく、むしろ11月9日に皇居前広場で催行された御即位奉祝国民祭典では天皇と国民の一体感を肌で感じたと述べた。その上で、藤野氏のコメントに関連する内容として、皇位継承儀礼に伴う宗教的要素をめぐる問題に言及した。すなわち、30年前は葬場殿の儀と大喪の礼を区別するために移動式の鳥居が設置され、あるいは大嘗祭の法的性格が問われるなど、今以上に宗教的要素をめぐる問題が喧しく議論された。しかし、今回は一部の学者たちをのぞき、メディアの報道を見ると、上皇陛下が御譲位を奉告するため伊勢神宮での親謁の儀に臨まれたことに始まり、天皇陛下による即位礼正殿の儀に至るまで、宗教的要素をめぐる問題は日本の伝統の誇るべきものとして好意的に取り上げられたのではないか、と評した。その背景には日本国民が三種の神器を含むものを肯定的に受け入れている意識があり、前述の報道はそうした空気を商業マスコミが敏感に察した証左であろうと述べた。

金子氏は、「善悪を併せ持つ相対的存在である人間が自己を超えた崇高なる絶対者の存在を確信し、これを祀る儀礼を行い、それと自らの関係を意識し、その関係を踏まえて形成された社会的規範に従う営み」が宗教であると定義した上で、現代の日本人が宗教的要素をいかなるものとして受け入れているか、という問題を提起した。すなわち、寺社を地域レベルで支える仕組みが綻びを見せ始めるなど、生活の次元において宗教の存在が希薄化している現状は、ある意味で近代化の一つの帰結である。ただし、近代科学と資本主義を背景にして世俗化と自我の肥大化、社会の不安定化が増す中で、個人を超える究極的価値を説く宗教の必要性はますます強まっている。しかし、肝心の宗教が旧態依然の在り方にとどまっていることが問題であるとし、このような問題意識から、日本における天皇の位置付けを問い直すべきことや、三島の天皇論が有力な参考軸になると指摘した。

編集者として活躍している荒岩氏はこれまで弊会公開講座で蓮田善明、保田與重郎、伊藤静雄、影山正治について講演しており、自らの研究成果は自著『国風のみやび』(展転社)にまとめている。昭和56年生まれの荒岩氏は前回の御代替わりの時に7歳であり、当時の記憶はほぼないとしながらも、平成18年以降、毎年の新年と天長節の際、皇居の一般参賀に向かう人々に日の丸の小旗を配る奉仕活動をしており、今年(令和元年)は御即位の一般参賀、祝賀御列の儀でも小旗配布の奉仕活動に参加している。平成28年の天皇陛下(現上皇陛下)による御譲位の意思表明に影響される形で、ここ2、3年は一般参賀に参列する国民の数が急増していることは喜ばしいとしながらも、その関心の寄せ方には不満があると述べた。日の丸の小旗を振らず、スマートフォンをかざす人々の意識はかつて小泉信三が述べた「週刊誌的天皇制」に基づく関心であって、天皇の本質については無関心のままであると評した。平成以降、天皇陛下が被災地を巡幸し、国民の声を直接に聞し召す御姿だけを報道していることが「週刊誌的天皇制」の背景にあるとし、天皇による国の統治に必要な国見(くにみ)の現在形が被災地巡幸であることを伝えるべきだと指摘した。その上で、現在の国民意識は三島の時代よりも危機的状況にあり、その中でこそ、三島が主張した「文化概念としての天皇」に着目する必要があると述べた。

次に、討論の焦点は三島における天皇への認識はどう形成されたのか、人生の上における大きな背景や注目すべき作品について検討することに移った。

藤野氏は著著『三島由紀夫と神格天皇』で示したように、戦時中の経験、特に20歳当時の入隊検査で軍医が肺浸潤と誤診したことで、即日帰郷を命じられた経験こそ、のちに三島が自決に至る遠い要因であると述べた。自伝的要素を持つ小説『仮面の告白』で入隊検査当日の様子を克明に描いており、息子を戦死させないため、屈強な農村青年が多い地域で入隊検査を受けさせた父の善意を「入れ知恵」と表現している。また、軍医に対して病状を誇張したことは嘘をついたことであると述べている。元来、潔癖な性格であった三島は自らの不正な言動に起因して入隊検査で不合格になったことで、強い罪の意識を抱いたのではないか、と指摘した。また、昭和41年発表のエッセイ「私の遺書」では、入隊検査前、家族宛に書いた遺書を全文公開するという異常な行為をしている。その中で三島は「自分の人生でこれこそ、ただ一通の遺書である」と述べており、同じことを自決1週間前の古林尚との対談でも述べていることから、20歳当時の遺書こそ、自決当時の遺書そのものと解釈できると評している。しかも、その遺書の最後に大きく書かれた「天皇陛下万歳」という言葉はバルコニーでの演説の最後の言葉であり、楯の会会員向けの遺書にも見られることから、「天皇陛下万歳」は三島自決を考える上でのキーワードである。そして、三島が自決にあたり、切腹という道義的作法を採用したのは、入隊検査における自らの罪を償うという意味があったのではないか。また、平岡梓の著書『倅・三島由紀夫』によれば、三島は入隊検査から帰宅した日、母親に対して特攻隊に入りたかったという願望を語っており、のちに様々な形で特攻隊へこだわりを語っていることを考えれば、これこそが三島の本心ではなかったのか、という推論を提示した。

続いて、菅谷から金子氏に対しては、生前の三島が『英霊の聲』、『憂国』の内容をめぐって右派の側から批判されるなど、評価の分かれていたことに触れ、特に「などてすめろぎは人となりたまひし」という台詞で知られる『英霊の聲』をどう捉えるのか、という問いがなされた。

金子氏は中学時代に『英霊の聲』を読み、霊媒師に憑依した二・二六事件の青年将校と神風特攻隊員が戦後日本の有り様に痛憤する場面から強い衝撃を受けたことや、作品に記された情景が自らの眼前に広がる光景と重なって愕然とした。そして、20代の終わりに至るまで、その場面を何度も読み直し、ときに音読することもあったという思い出を語った。昭和の終わりから平成の初めはバブル景気の只中であり、まさに『英霊の聲』にあるように、人の値打ちは金よりも卑しくなった「鼓腹撃壌の世」であったと述べた。また、金子氏が在籍していた筑波大附属駒場中学・高等学校の教員は左派的傾向が強く、のちに文部省の指導により国歌の演奏は行わるようになったものの、自らの主義に殉じて退職する教員は一人もいなかったとし、まさに『英霊の聲』の一節「世に背く者は背く者の流派に、生かしこげの安住の宿りを営み」を如実に示すものであったと感じたという。こうしたことから、金子氏は少年時代の自分自身にしても、『英霊の聲』執筆当時の三島にしても眼前に繰り広げられた人間の愚行に対する純粋な怒りがあったと述べた。

また、金子氏は自らの論文「文化概念としての『国体』─三島由紀夫を巡って─」(『国体文化』第1102号、平成28年)に基づき、三島は現実の政治や社会が醜いものであるばかりに、本来は清きものであるべき国体が汚されているとし、その状況を打開するために行動しなければならないという意識が『英霊の聲』から読み取れると指摘した。しかし、純粋な恋闕の情は必ず天皇が御嘉納されることで国体は成立するという三島の国体観に立ったとき、もしも天皇がその情を御嘉納されなかった場合は裏切りとなるのか、また、国体は成立しないのか、という問題が浮上する。御嘉納しなかったから国体が成立しないとなれば、楠木正成が足利軍の入洛を前にして、後醍醐天皇に対して平安京の明け渡しとゲリラ戦術の採用を提案申し上げたのに、それを天皇が御嘉納にならなかったという史実を理解できなくなる。三島は国体を忠義という心情の次元から捉えることで読者の心を揺さぶったが、国体は心情そのものではないことから、三島の国体観には前述のような瑕疵が生まれると指摘した。また、『英霊の聲』の最後で霊媒師の青年が悲しい最期を遂げる場面に触れ、こうした三島の絶望を是とすることはニヒリズムに過ぎるとし、後から生まれる子孫を救うことにはならないと述べた。

この金子氏の発言を受けて、菅谷からは「豊饒の海」第二巻『奔馬』における飯沼勲の台詞にも恋闕の情をめぐる問題が示されていたことが紹介された。その上で、三島の来歴や作品をたどる上で、学習院での学校生活や教育内容は不可分の関係にあることから、荒岩氏に対してコメントを求めた。

荒岩氏は戦前、宮内省外局であった学習院では「皇室の藩屏」たる意識が教職員の間で強く、その一人として、皇族方への教育や「東宮殿下御教育案」作成に携わった国語教師・清水文雄を挙げている。三島自身は、清水が自分にとって良き師であり、平安朝文学の世界に導き入れた存在と述べていることから、荒岩氏は、天皇の本質を「文化的概念としての天皇」に求めた三島にとって、日本文化の核たるべき部分は清水から教わったと言っていい、と評した。その上で、清水と同じく『文藝文化』同人であった蓮田善明にも触れ、天皇の文化を真似ること、すなわち、「みやび」は平時にあっては花鳥風月のように優しい姿をしているが、有事の際は破邪の剣たる性格を持つと述べた。その上で、三島は清水や蓮田を通じて「みやび」の思想を受け継いだのであり、それが建軍の本義を考え、あるいは「文化防衛論」を著す上での思想的根幹になったと指摘した。

次に、討論ポイントは三島の天皇論に影響を及ぼした人物や出来事、あるいは三島の天皇論の特徴を整理していくことに移った。菅谷からは三島が天皇に触れた文章は多いながらも、その解釈や評価が分かれてきたことから、三島による天皇論の意義と限界の双方に目を向ける必要性が指摘された。

藤野氏は、三島が「問題提起」と題した論文の中で、天皇は祭祀を執行する点で時間的連続性を表す象徴であると位置付け、憲法の条文に天皇の「神聖不可侵」という規定を復活させることを提唱していることから、天皇の位置付けだけは戦前天皇制の復活を意図していたと指摘した。ただし、「文化防衛論」で示された「文化概念としての天皇」は統治権の総攬者として天皇とは全く異なるものであり、三島の天皇論は戦前天皇制を完全に復活させようというものではなかったという見方を示した。そして、三島が「反革命宣言」で「文化概念としての天皇」と「言論の自由」を結び付けたのが古くて新しい国体であると主張していたことを紹介し、その背景には「言論の自由」を脅かしかねない反体制派や全体主義への危機感があったのではないか、と指摘した。また、三島は昭和45年の『読売新聞』に連載した論文「変革の思想とは─道理の実現─」では国家の機能として、天皇を中心とする祭祀的国家、代議制民主主義などの政治体制から構成された統治的国家の二つを挙げ、両者の均衡と調和の必要性を強く主張していたことを紹介した。以上の見地から、藤野氏は戦後の日本人が国家を「統治的国家」の側面のみで捉えてきたことに対して、三島は文化的存在としての天皇に注目した新しい国家像を提示していたという評価を与えた。その上で、戦前天皇制や軍国主義の復活を目指したという三島像の誤謬を指摘した。

荒岩氏も藤野氏と同様、三島が戦前天皇制の完全な復活を目指していたわけでないという見方を示し、一つの事例として統帥権をめぐる問題を挙げた。三島は戦前の日本が統帥権運用の面で失敗したことを踏まえ、軍を再建する場合は内閣総理大臣が指揮権を有し、「文化概念としての天皇」が栄誉を授与する立場が望ましいと考えていたことを指摘した。三島自身は記紀や万葉の世界に描かれた天皇像、特に神人分離以前の天皇を理想に挙げるとともに、仁徳天皇が民の竈の様子から税を免除した逸話は「文化概念としての天皇」ではなく、授業的発想に基づく統治的天皇と捉えていた。こうしたことから、『英霊の聲』に見られる「人間天皇」像へは戦後になって確立したものではなく、古事記にまで遡るものであることや、保田與重郎も三島と同じく神人分離の立場であったことを指摘した。三島は記紀・万葉における神人分離以前の天皇はエロティシズムと結び付いていたと述べており、これは三島の天皇論の大きな特徴の一つであると評した。天皇の本質部分として、保田が天孫降臨における天照大神の三代神勅に注目したのに対して、三島は三種の神器を強調している。三島は昭和25年の金閣寺炎上に強いショックを受けて小説『金閣寺』を書いたが、保田の場合、形あるものはいつか滅びるので再建すればいい、という精神の大切さを唱えた。三島と保田は伊勢神宮の遷宮をめぐっても対照的な見解を示しており、三島がコピーとオリジナルという表現を用いて、建物としての神宮にこだわったのに対して、保田は遷宮に伴う新たな生命としての連続性に意味を見出すなど、両者には文化面で決定的な違いがあったと述べた。

続いて、菅谷からは里見岸雄の国体論を専門とする金子氏に対して、里見との比較から三島の天皇論や国体論の思想史的位置付けについてコメントが求められた。

金子氏は三島が「文化防衛論」で、国体と私有財産制を同列に位置付けた治安維持法への批判的見解を示していたことに触れ、戦前の里見も同様の見解を示していたものの、三島の考えが里見に影響されたものと見るのは正しくないとした。金子氏は父である田中智学や、その田中に師事した石原莞爾との関係などをもとに触れつつ、生命弁証法という里見独自の存在論に基づく日本国体学の特徴を解説した。里見は天皇を中心とする民族社会を国体=「基本社会」と呼称し、経済機構や政治体制を「時代社会」と呼称した。「時代社会」は時代状況により変化するが、「基本社会」である国体はそうした変化にかかわらず持続する社会構造であるとし、日本の国体は太古より万邦無比であると捉えていたという。こうした見地から、金子氏は里見の国体論が社会全体を敷衍する社会構造論的な性質を帯びており、精緻な論理が特徴であったと指摘した。一方、三島の国体論は『英霊の聲』に代表されるように、国体の渦中にある者の意識による心情告白的な側面の強いものであり、同じく国体の渦中にあろうとする読者の信条を非常に掻き立てるものであったという見方を示した。

この後、菅谷からは三島自身は昭和天皇をどう評価していたのか、また、日本という国家における天皇本来の姿をどう捉えていたのかという点が最後の論点として提起された。

藤野氏は『英霊の聲』の解釈が現在でも難しい問題に触れ、三島が所謂「人間宣言」を理由として昭和天皇を批判したのは筋違いではないか、と述べた。所謂「人間宣言」は昭和天皇の意思により作成されたものではなく、マッカーサーは占領統治の上で天皇を利用するため、GHQ民間情報教育局のハロルド・ヘンダーソンに命じて起草させたものである。三島が恨むべき対象は昭和天皇ではなく、マッカーサーや敗戦であったはずであると指摘した。その上で、三島の理想的天皇像は新嘗祭や大嘗祭などの祭祀を司り、「みやび」を表す和歌を主導する「文化的概念としての天皇」であったことや、歴代天皇の精神である君民一体という在り方こそ、天皇制度を支える重要な理念として付け加えた。

荒岩氏は、三島が学習院高等科卒業式における昭和天皇のことをのちに敬意を込めて回想していることから、戦前の昭和天皇のことは立派に捉えており、三時間微動もしなかった天皇の姿は三島の目には統治的天皇像として映っていたであろうとする。ただし、戦後になると、所謂「人間宣言」に対するショックから「などですめろぎはひととなりたまひし」という発想になったのではないか、と指摘した。三島が戦後の「週刊誌的天皇制」をはっきりと拒絶したのは間違いないが、それは昭和天皇が人となったことへの批判なのか、あるいは仁徳天皇の時代に神人分離が行われたことへの批判なのか、という点は今後研究される必要性があると述べた。

金子氏は埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏の著書『神やぶれたまはず』(平成25年)の論旨を紹介し、三島の天皇観にユダヤ・キリスト教的な側面があったことには同意しつつも、西洋にかぶれていたわけではないと指摘した。すなわち、ユダヤ・キリスト教の思想は唯一絶対の存在に対して我を意識する構造である。一方、神道のような多神教の世界に唯一絶対の神はなく、それに対する我という存在は生じにくく、他者との境界は曖昧である。しかし、グローバル化・IT化する現在、従来までの多神教的な在り方を続けることは困難であるように思うと述べた。グローバル化により外国人との交流が日常茶飯事となり、IT化によって個人化が促進される時代にあって、日本人は多神教的な伝統を守りつつも、一神教的な考えをある程度受け入れる必要であり、その中で三島のユダヤ・キリスト教的な天皇観を見直す意義があるのではないか、と提言した。

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