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戊辰戦争において「朝敵」の烙印を押され、薩長と中心とする政府軍に敗北した奥羽諸藩。
「白河以北一山百文」と蔑まれる中で、明治日本の礎となった東北地方出身者は少なくない。
北上川の舟運で栄えていた南部(盛岡)藩領・花巻(現在の花巻市)に生を受けた金子兄弟もまた、そうした東北出身者の一員である。

長男・金子彌平(彌兵衛)〔安政元(1854)年12月25日〜大正13(1924)年2月17日〕
福澤諭吉の押しかけ書生となり、慶應義塾で学ぶ。支那に遊歴すること数年。滞米経験もあり英語も堪能。官界を経て実業界へ。アジア復興に生涯を賭け、晩年は田中智學師の日蓮主義に共鳴。
 黒龍会編『東亜先覚志士記伝』
 金子宗徳「金子彌平 ― ある『明治人』の軌跡」〔『明治聖徳記念學會紀要』(第42号)〕
 金子宗徳「東山金子彌平と日蓮主義の時代」(抄)〔『国体文化』(平成18年7月号・9月号)〕

次男・金子弥太郎〔安政3(1856)年9月11日〜明治23(1890)年5月25日〕

三男・金子彌助〔安政5(1858)年3月13日〜大正11(1922)年7月15日〕

四男・金子友之助〔文久2(1862)年5月17日〜明治41(1908)年2月8日〕
兄・彌平とともに満洲の安東で事業を展開するも、同地において志半ばで他界。

五男・金子謹三〔元治元(1864)年10月10日〜明治28(1895)年5月15日〕
兄・彌平と共に渡米。現地でキリスト教に改宗。東西宗教の統一を念願していたが、帰国間際に客死。
 金子宗徳「ある明治のキリスト者 ― 金子謹三の生涯」〔『人形町サロン』(2007年5月8日)初出〕

六男・金子金太郎〔明治元(1868)年12月16日〜明治21(1888)年5月18日〕

七男・金子倉之助〔明治6(1873)5月2日〜不明〕

[金子家系図]
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