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金子謹三 金子謹三墓碑

金子謹三伝

故国を遠く離れて

 米国の東部、ペンシルヴァニア州ランカスターに、ひとりの日本人キリスト者が眠つてゐる。その名は金子謹三。“FAITHFUL UNTO DEATH”(「死に至るまで忠信」)と刻まれた墓碑の前で、去る4月2日の昼、晴れ渡つた空のもと、さゝやかなミサが執り行はれた。チエ・レイマン博士が(英語で)聖書の一節を読み始める。

 然れど正しくキリストは死人のうちより甦へり、眠りたる者の初穗となり給へり。それ人により死の來りし如く、死人のもまた人に由りて來れり。凡ての人アダムによりて死ぬる如く、凡ての人キリストに由りて生くべし。我ら土に屬する者の形を有てるごとく、天に屬する形をも持つべし。兄弟よ、われ之を言はん、血肉は神の國を嗣ぐこと能はず、朽つるものは朽ちぬものを嗣ぐことなし。そは此の朽つる者は朽ちぬものを、この死ぬる者は死なぬものを著るべければなり。此の朽つるものは朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著んとき『死は勝に呑まれたり』とされたる言は成就すべし。『死よ、なんぢの勝はにかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある』死の刺は罪なり、罪の力はなり。されど感謝すべきかな、神は我らの主イエス・キリストによりて勝ちを與へたまふ。然れば我が愛する兄弟よ、くしてくことなく、常に勵みて主の事を務めよ、汝等その勞の、主にありて空しからぬを知ればなり。〔『文語訳新約聖書』「コリント人への手紙」〕
 
 謹三の親族(兄の曾孫)にあたる筆者をはじめ、渡米に随行してくれた牧野邦昭氏(京都大学大学院経済学研究科博士後期課程在学中)、現地でガイドを務めてくれた桂島雄君(東北学院大学からフランクリン・アンド・マーシャル大学に交換留学中)の三人は、深く頭を垂れながら朗読に耳を傾けてゐた。さらに、レイマン博士の朗読は続く。
 
 我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたるのごとくして、神の許をいで、天より降るを見たり。また大いなる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人とにあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕にして、かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎(ひたん)も叫號(さけび)も苦痛(くるしみ)もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』〔前掲書「ヨハネの黙示録」〕

 

優等生の誉れ高く

 元治元(1865)年10月10日、金子謹三は、現在の岩手県花巻市において、金子金兵衛の五男として生を受けた。金子家は、近在に広大な地所を有する商家であるだけでなく、藩からは士分の扱ひを受け、苗字帯刀を許されてゐたといふ。
 
 小学校在学中から優秀であつた謹三は、明治天皇東北御巡幸〔明治9(1876)年6月〕時の天覧授業に、学校を代表して出席したといふ〔『花巻市史(近代編)』〕。長じて、謹三は(大蔵省に奉職してゐた)長兄の彌平を頼つて上京し、福澤諭吉の慶應義塾に入社する〔明治15(1882)年12月5日――『慶應義塾入社帳(第二巻)』〕。なほ、慶應義塾の第3回卒業生であり、清国に三年ほど滞在してゐたこともある彌平は、本邦初のアジア主義団体として知られる《興亞會》〔明治13(1880)年2月設立〕の中心メンバーでもあつた――詳しくは、拙論〔「金子彌平――ある明治人の軌跡」/『明治聖徳記念学会紀要』(復刊第42号)、『東山金子彌平と日蓮主義の時代』/『国体文化』(隔月連載中)〕を御覧頂きたい。
 
 明治17(1884)年4月、慶應義塾仕込みの英語力を見込まれてか、彌平がニューヨーク勤務を命ぜられた。21歳で清に渡つた彌平は、19歳の謹三を米国へ連れて行くことにする。同年5月30日、二人は米国に向けて出発した。

 

W.E.ホーイとの出会ひ

 米国に着いた謹三は、時のニューヨーク駐在領事(鹿児島藩出身の高橋新吉)に薦められ、ランカスターにあるフランクリン・アンド・マーシャル大学の予科に籍を置く。同大学は、既に100年弱の伝統を有する――前身の一つであるフランクリン大学の創立は1787年――名門大学であつた。
 
 それと同時に、1871年からランカスター神学校が同じ敷地に置かれるなど、ドイツ改革派教会との関係も深い。ペンシルヴァニアにおけるドイツ系移民の歴史は18世紀初頭にまで遡るが、その多くは、宗教的迫害を受けた改革派(プロテスタント)やメノナイト派であつた――ランカスターは、現代文明と距離を置き、18世紀ドイツの生活を維持してゐることで知られるアーミッシュが住むところとして知られるが、彼らはメノナイト派の系統に属する。
 
 19世紀に入ると、キリスト教のアジア・アフリカにおける布教が盛んになつた。開国したばかりの日本にも宣教師を派遣してゐた各教派は、新政府がキリスト教を解禁する〔明治6(1873)年〕と、ますます熱心に活動を展開する。さうした流れの中で、ドイツ改革派教会も宣教師の日本派遣を決定した〔明治11(1878)年〕。
 
 話を謹三に戻さう。一人の神学生との出会ひが、謹三の人生を変へる。その名はW.E.ホーイ。謹三より7歳上のホーイは、ランカスター神学校の最上級生であつた。日本伝道を志してゐたホーイは、謹三のために英語聖書の講義を行ふ。語学の学習を通じて、信仰の世界に導かうとしたのであらう。ホーイの企図は功を奏して、謹三は信仰の告白に至る〔明治18(1885)年4月3日〕。
 
 謹三がキリスト教への入信を決意した理由は判然としない――金子家の宗旨は浄土宗である。けれども、彌平によれば、謹三は「兼ねて東洋宗教の革命を爲さん願望を有し」てゐたといふ〔田中智學宛書簡・明治40(1907)年5月23日付〕。「兼ねて」とあるだけで具体的な時期に言及してをらず、断言はできないが、師と仰いだ福澤諭吉が土俗的神秘主義を排した合理主義者であつたことなどを考へ併せると、(呪術的な加持祈祷などと結びついた)日本在来の宗教に慊らぬものを感じてゐたのではないか。因みに、謹三について「骨肉の親愛あるのみならず意氣の投合ありて小生の最も信頼いたし居候」〔前掲書簡〕とも述べる――彌平は、後年、「日蓮主義」を唱へた田中智學に師事するが、智學もまた「淫祠迷信」を厳しく批判してゐた〔田中『宗門之維新』〕。

 

志なかばで

 兄の彌平は帰国し〔明治18(1885)年10月〕、謹三を信仰へと導いたホーイも日本伝道に出発した〔同年12月〕が、ひとり謹三はアメリカで勉学に励んだ。明治20(1887)年には、予科を卒業して大学本科に進学した。大学生活は充実したものだつたらしい。明治23(1890)年に発行された学内誌『ザ・リフランメ』には、3年生全体の副代表を務めるとゝもに、《ディアグノシアン文学会》や《青年キリスト者同盟(YMCA)》といつたサークルにも参加してゐたとの記録が残つてゐる。
 
 明治24(1891)年6月18日にフランクリン・アンド・マーシャル大学を卒業した謹三は、伝道者の道を選ぶ。ランカスター神学校に進学し、3年後の明治27(1894)年5月14日には説教者の資格を得る。けれども、東北学院――現在の東北学院大学、ホーイが松山出身の押川方義と共に設立した仙台神学校を前身とする――の旧約学教授に就任することが内定してゐた謹三は、もう一年かけて、ヘブライ語などの特別研究を行つた。
 
 しかし、何たることか。翌年5月、11年間の留学により満足すべき成果を得て、後は帰国を待つばかりといふ時になつて、謹三は肺の疾患に倒れてしまふ。ドイツ改革派教会の機関紙『リフォームド・チャーチ・メッセンジャー』――以後、『メッセンジャー』と表記――(5月9日付)は、謹三が重態である由を悲しみと共に報じた。神学校近くのセント・ジョゼフ病院に入院した謹三は、見舞ひに駆けつけた教授や友人を穏やかに微笑みながら迎へ、アメリカに埋葬して欲しいとの希望を表明する。5月15日早朝、謹三は30年足らずの生涯を閉ぢた。
 
 5月17日、謹三の葬儀が神学校の礼拝堂(サンティ・ホール)で行はれ、ランカスター公共墓地のカレッジ・ロットといふ一角に埋葬された。異郷における志なかばの死は、ドイツ改革派教会に大きな感動を巻き起こす。「金子基金」が設立され、各地から多額の基金が寄せられる。この基金は東北学院に寄贈され、教育基盤の拡張に資したといふ〔『東北学院大学百年史』〕。
 
 ところで、『メッセンジャー』(6月6日)号に友人(E.D.M生)が寄せた追悼文からは、謹三の人となりが窺へる。まづ、謹三の信仰ぶりについて、彼は次のやうに記す。訳は、筆者によるものである。
 
 キリストに対する深甚なる奉仕と神に対する揺るぎなき信仰は、私たちに感銘を与へた。そして、彼の祈り!私は、彼が祈つてゐる様子を決して忘れないだらう。言葉はたどたどしく、アクセントは間違ひだらけだつたが、祈りに際して彼が膝をかがめるとき、自身の父親に話しかけてゐるやうにしか感じられなかつた。
 
 また、謹三は敬虔なキリスト者であるとゝもに熱烈な愛国者でもあつた。
 
  金子氏は自身の祖国を愛し、故国の人々が真の神に仕へるやうになる日を待ち望んでゐた。ある人が日本の悪口を云つたのを聞いた彼は悲しみ、憤慨した。彼は愛国者であつた。私が彼から受け取った最後の手紙には、祖国の「義戦」に我が身を捧げることができないことに対する後悔が綴られてゐた。
 
 「義戦」が明治27(1894)年7月に始まつた日清戦争であることは云ふまでもない。内村鑑三を持ち出すまでもなく、キリスト者も旧弊なる清国との戦ひを「正義」と考へてゐた。加へて、兄の彌平は軍属として営口の民政支部で働いてをり、局外に身を置いてゐることがもどかしくてならなかつたであらう。我々は、こゝにも一人の明治人を見ることができる。

 

百年の時を超えて

 謹三の死からから百年あまりが経ち、彼のことを知る者も少なくなつた。だが、彼が残したものは決して小さくはない。謹三は「生き続けてゐる」と云へるくらひだ。今回の実地調査では、そのことを痛感させられた。
 
 まづ何より、東北学院大学から提供された史料なしで、この一文を草することはできなかつたであらう。また、東北学院大学とフランクリン・アンド・マーシャル大学とは長年にわたつて交流を続けてゐるため、今回の渡米に際しても東北学院大学を通じて調査に対する協力を御願ひしたが、部外者の不躾な御願ひを国際交流部長の秋葉勉教授は引き受けて下さった。有難い限りである。
 
 フランクリン・アンド・マーシャル大学及びランカスター神学校では、謹三に関はる史料や当時の写真を閲覧・複写させて頂いたが、当時の名簿(手書き)が出てきたのには驚いた。たぶん謹三の自筆と思はれ、しばし見入つてしまつたほどだ。加へて、それらの整理は極めて行き届いてをり、アーカイヴィストの方々(大学のマイケル・リアー氏、神学校のリチャード・バーグ氏、そしてスタッフの方々)も極めて有能かつ親切であつた。残念ながら、日本で同様の扱ひを受けるのは無理だらう。
 
 また、現代の謹三とも云ふべき日本人留学生達と会へたことも大きな収穫だつた。とりわけ、前にも登場した桂島君はガイドを務めてくれたゞけではなく、東北学院大学OGのレイマン博士を紹介してくれた。当初は墓前に手を合はせられゝば良いくらひに思つてゐたが、博士にわざわざミサまでして頂き、御礼の云ひやうもない。2日の晩には、桂島君を始め4人の留学生と食事をしながら話をしたが、慣れぬ異国の地で頑張つてゐることが伝はつてきた。彼らが各々の志を遂げてくれることを祈つてゐる。

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