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【転載】生誕800年に見つめ直す、正統と改革の大聖人日蓮が描く理想社会

日蓮について、読者の皆さんはいかなる印象を持っておられるだろうか。

彼が元寇を予言したというエピソードを思い起こす人や、あるいは創価学会を連想する人もあろうが、それらは日蓮という人物の一端でしかない。

それ国は法に依つて而(しこう)して昌(さか)へ、法は人に因つて而して貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべけんや。先づ国家を祈つて、須(すべから)く仏法を立つべし。 これは、鎌倉幕府の前執権であった北条時頼に宛てた日蓮の建白書『立正安国論』の一節である。「法(仏教の教え)」と「国(国家・国民)」とが切っても切り離せないと考える日蓮は、仏教の正しい教えを確立すること(立正)によってのみ、国家・国民の安寧(安国)は可能になると説いた。

こうした日蓮の思想は、いかにして形成されたか。それを知るには、その生い立ちをさかのぼらねばならない。

承久4(1222)年、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村に一人の男児が生まれ、善日麿(または薬王麿)と名付けられた。この善日麿が後の日蓮となる。

日蓮門下においてその誕生は2月16日とされており、この日に慶讃の法要が今でも行われている。生誕から数えで800年目にあたる本年は、コロナ禍で規模を縮小するものの、生家跡近くに建立された誕生寺(もとは生家跡に建立されたが、津波による水没のため現在地に移転)で大規模な行事がなされるという。

数えで12歳となった善日麿は学問を志し、近在の山腹に建つ清澄寺で学問に励む。当時の清澄寺は天台宗の寺院であり、そこで仏教の天台教学を学んだのであろう。

ここで、簡単に仏教と天台教学について略述しておきたい。初期の仏教における根本的な教説は、以下の「三法印」に拠っている。

1.諸行無常(あらゆる現象は不変ならざる(移りゆく)ものである)

2.諸法無我(あらゆる物事は因縁によって生じた実体性のない仮の存在である)

3.涅槃寂静(前二者を体得することによって煩悩を滅尽すれば悟りの境地に達し、心の平安を得る)

ただ、これらは難解である上に、厳しい出家生活を送る必要があったため、それらを理解し、実践し得る者は少数であった。

かかる個人主義的な仏教の在り方に対し、他者の救済を通じて結果的に自身も救済されるべきと考えた者たちは、自らをサンスクリット語でボーディ・サットヴァ(菩薩)と称した。

このような社会全体の救済を志向する集団は、同じくサンスクリット語でヒーナヤーナ(小乗=限られた人しか救い得ない乗り物)たる従来の仏教に対し、自分たちの掲げる仏教をマハーヤーナ(大乗=多くの人を救い得る乗り物)と称し、自派の優位性を主張した。

その後、『華厳経』『阿弥陀経』『般若経』など大乗仏教の立場から多様な経典が書かれたが、中でもこれら諸経典を整理統合しようとする『法華経(妙法蓮華経)』は特筆すべき存在であった。

『法華経』では、次の二点を強調している。

1.あらゆる人間は仏性を宿しているのだから仏の慈悲により救済される資格がある。

2.その主体となる仏は、古代インドにおいて釈迦と呼ばれた人物ではなく、はるか遠い昔に悟りを開いて時空を超えてさまざまな場に現れ、人々の機根に合わせて多彩な教えを説いてきた「久遠実成の本仏」である。

これらの所説に従えば、一切の諸経を包摂した上に、その便法たる部分と真理たる部分とを区別することが可能となる。さらにはあらゆる人間に対して、現実世界で性別や能力にかかわらず成仏することができ、ひいては社会もまた成仏して「仏国土」が実現する道が開かれることになる。

『法華経』がわが国に伝来したのは仏教公伝から間もない時期のことで、『日本書紀』によれば、推古天皇14(606)年に聖徳太子が『法華経』に関する講義をしたという。

なお、聖徳太子は『法華経』の解説書『法華経義疏』を著したことでも知られる。さらに、『法華経』は『金光明最勝王経』『仁王経』と共に「護国三部経」と重んじられ、聖武天皇は全国に「法華滅罪之寺」(国分尼寺)を建立した。こうした『法華経』受容の背景に、先の「仏国土」思想があることは言うまでもない。

そうした『法華経』を下敷きにして諸経典を統一したのが古代支那の天台大師・智顗であり、その成果が天台教学である。この天台教学をわが国に移入したのが最澄であり、平安時代に、最澄が建立した比叡山延暦寺、そして後に門流が分裂して成立した園城寺を中心として、天台宗の寺院が各地に開かれた。

しかし、日蓮こと当時の善日麿は、二つの大きな疑問を抱いていたという。

第一に、仏教の教義によれば、前世において徳を重ねた果報として「天皇」という地位につかれたはずであるにもかかわらず、なぜ安徳天皇は壇ノ浦で入水(じゅすい)せざるを得なかったのか。

また、どうして後鳥羽上皇は承久の乱に敗北して隠岐(おき)へと流されたのか。そのような不幸な御生涯を送られたということは、何か大きな過ちを犯してしまわれたからか。

第二に、承久の乱において、後鳥羽上皇の意を受けた比叡山をはじめとする寺社の高僧たちが北条義時征伐の加持祈祷を行ったにもかかわらず、どうして義時が勝利したのか。

加持祈祷によって現実世界をコントロールできるという真言密教の思想は正しい仏教と言えないのではないか。そもそも、もとは一つであったはずの仏教が宗派に分裂し、対立しているのはなぜか。何が正しい仏教なのか。

この二つの問いは鎌倉時代当時の、国家と宗教に対する根本的疑問であった。

この問いに挑むべく、日蓮は清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立て、16歳のときに得度(とくど)して是聖房蓮長と名乗る。

その後、各宗派や諸経典の優劣について一つの直感を得た日蓮は、経典に基づいて各宗派の教義を検証すべく、比叡山・園城寺・高野山などに遊学した。

十数年に及ぶ遊学を経て、彼は「法華経」こそ仏教の中心となる経典であり、それを否定する諸宗派は仏教の正しい教えとは言えないことを確認する。その意味において日蓮は、天台宗でありながら真言密教を受容した比叡山および園城寺の現状は否定されるべきものであった。

とはいえ、日蓮も真言密教を受容する以前の状態に戻れば解決すると考えたわけではない。そのときとは時代が大きく変化しているからだ。そしてこのことは、「末法」という言葉に象徴されている。

「末法」とは仏教における「三時」の一つである。「三時」とは「正法」「像法」「末法」の三つ時に分類され、それぞれ千年経るごとに時代が移り変わるというものだ。

1.正法:釈迦の逝去後から千年、その説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人が存在する時代

2.像法:「正法」を過ぎ、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人は存在しない時代。

3.末法:人も世も最悪となり、正法がまったく行われない時代。

平安時代から鎌倉時代にかけて、釈迦は紀元前949年に逝去したと考えられており、永承7(1052)年が「末法元年」とされた。この年、藤原道長の子である頼通が関白を務めていたが、東北地方で安倍一族が反乱を起こした前九年合戦や、奥州藤原氏勃興のきっかけとなった後三年合戦など、朝廷を主導する藤原摂関家の権威に陰りが見えはじめてきた。

安倍氏の反乱を鎮圧した源頼義が東国武士の中で重きをなすなど武士が台頭し、没落する摂関家に代わって皇位を退いた上皇や法皇が政治の実権を握る院政が行われるようになっていく。

これら政治的主導権を巡る争いは、源平の合戦から鎌倉幕府の成立をへて承久の乱に至るけれども、その過程で権力者と結びついていた仏教界の堕落も進んだ。こういった社会情的背景もあったことで、人々は当時の時代意識として「末法」の二文字を抱くに至った。

末法の世の中で、日蓮はさらなる疑問を抱く。それは「二十五方便」という以下の状態を保ち、「十乗観法」と呼ばれる瞑想を行うことで、さまざまな煩悩(欲望)を断滅して精神を清浄にした上で瞑想を行い、『法華経』に示された境地を理解するという、高度の知力と極度の忍耐力を要する観念的な修行に何の意味があるのか、という点だ。

二十五方便とは

・具五縁(持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識の五つ)

・呵五欲(色・声・香・味・触の五欲を起こすことを戒めること)

・棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五つの煩悩を捨てること)

・調五事(食・眠・身・息・心の五つを調えること)

・行五法(欲・精進・念・巧慧・一心の五つを行うこと)

そもそも、そうした修行に耐え得る一部の者しか「悟り」を得られない一種の思弁哲学に天台教学が陥ってしまったからこそ、現実問題の解決を求める人々は真言密教になびいてしまったのではないのかと、日蓮は思索する。

そこで彼は「常人には実践困難な修行を重ねた結果として法華経を信仰するのではなく、仏が悟った内容としての法華経を信仰するところから修行を始めよう」という新しい信仰の在り方を確立した。

その合言葉が「南無妙法蓮華経」の題目なのである。「南無」とは、サンスクリット語の間投詞「ナモ」を音写したもので、「帰依する」という意味であり、「『妙法蓮華経(法華経)』に帰依する」という意味だ。

『法華経』に基づく新しい信仰を確立した是聖房蓮長は清澄寺に戻り、名を日蓮と改め、他宗派を批判すると共に「唱題行」の実践を主張した。

他宗派に対する批判は、後に「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の「四箇格言」として、以下のように整理されている。

念仏無間

・浄土宗や浄土真宗といった念仏の教えは、現実世界を穢土(えど)と見なし、阿弥陀如来の「仏国土」である西方極楽への往生を願うが、そうした退嬰(たいえい)的な厭世(えんせい)主義にとどまる限り、現実世界における絶え間ない苦難は解消されない。

禅天魔

・臨済宗や曹洞宗といった禅の教えは、不立文字(ふりゅうもんじ)など文字に書かれることのない真理を強調するが、仏教を掲げる以上は仏の言葉とされる経典に依拠すべきであり、凡夫たる人間が勝手なことを主張するなど魔に魅入られた不遜な所業である。

真言亡国

・真言密教は、加持祈禱(かじきとう)で現実世界をコントロールできると主張するけれども、依拠する『大日経』に根拠となる部分はなく、承久の乱において後鳥羽上皇が敗北したことからしても現実的な有効性はなく、国を滅ぼしかねない。

律国賊

・律宗など奈良仏教の流れをくむ教えは、戒律を厳守することで悟りを得ようとするが、いたずらに自由を拘束しても民衆の救済にはつながらず、「末法」においては無駄な努力である。

こうした日蓮の他宗批判は、「一切の諸経を統一し、仏の慈悲に基づいて現実世界において全ての人間を救う」という『法華経』の主張を踏まえた結果である。

けれども、当然ながら他宗の僧侶や信者の怒りを買い、暴徒から何度も襲撃されたり、幕府によって繰り返し弾圧されたりした。

しかしながら、度重なる「法難」にもかかわらず、日蓮は『法華経』に基づく理想社会の実現を目指して生ある限り布教を続けた。

そして日蓮の死後も、その教えは社会に大きな影響を与える。いくつかの例を挙げよう。後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒後に日蓮の弟子である日像の御進講を聞き、京都での布教を許可された。それだけでなく、右手に剣を、左手に『法華経』を持ったまま、崩御されたと伝えられる。

その後、現世における救済を説く日蓮の教えは京都の経済活動を支える町衆に受け入れられた。その結果、京都は「題目のちまた」と化し、多くの寺院が立ち並ぶに至る。

その後、日蓮の教えを信じない者からの施しは受けず、また、信じない者に施しは与えないという「不受不施」の教義ゆえ、叡山や周囲の守護大名の攻撃を受けて寺院が破却されるが、再び勢力を回復し、その保護の下に長谷川等伯や本阿弥光悦など桃山文化を代表する芸術家が活躍した。

「不受不施」の教義は政治に対する宗教の自立を意味するが、豊臣政権や徳川幕府の弾圧を招く原因となった。「不受不施」を説くことは禁じられ、その教義を守ろうとする者は「隠れキリシタン」と同じような信仰生活を送ったのである。

同時代の宗教弾圧としてはキリスト教(カトリック)ばかりが取り上げられるが、「不受不施」を巡る日蓮宗への宗教弾圧にも目が向けられるべきだろう。

その後、明治維新を経て宗教活動の自由が認められたことを背景に、「立正安国」思想の現代化を図ったのが田中智學である。神武建国の精神と法華経の理想とは重なり合っており、そのような特徴を有する日本国には「八紘一宇」すなわち世界を道義的に統一する使命があるという、田中智學の主張は少なからぬ人々に支持された。

その代表的な人物は、『世界最終戦論』において、大量破壊兵器と長距離運搬手段の登場を予測し、それを用いた日米の決戦というシナリオを描いた日本陸軍の石原莞爾であろうが、意外なところでは童話作家の宮澤賢治も智學の統率する「国柱会」の会員であった。

これまで述べて来た通り、日蓮は決して狂信的な人物ではなく、大乗仏教の正統を受け継ぎつつも時代の変化を踏まえて大胆な改革を行ったのであり、その影響力は宗教や政治のみならず、文学や芸術にまで及んでいるのだ。

〔初出・産経デジタルiRONNA〕

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