公式ブログ

【転載】今こそ文化の日を『明治の日』に制定すべきである

今日11月3日は「文化の日」であるが、なぜ「文化の日」なのか?

祝日法(国民の祝日に関する法律)には、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」と趣旨が記されているが、字面を見た限りでは特定の日と結び付けることは不可能だ。

実は、この「自由」・「平和」・「文化」は、祝日法が制定される約2年前の昭和21年11月3日に公布された法規と深い関係を有する。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(中略)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(後略)

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(後略)

言うまでもなく、前者は日本国憲法の前文、後者は同憲法の第25条である。すなわち、「文化の日」とは日本国憲法の公布を記念し、その理念をたたえる祝日と言ってよい。

御承知の通り、日本国憲法に関わる祝日と言えば、5月3日の「憲法記念日」が別に存在する。この日について、祝日法は「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」と趣旨を定めている。要するに、現在のわが国には日本国憲法に関わる祝日が公布日と施行日の二つ存在するのだ。

どうして、このような事態が生じたのか。さらに言えば、なぜ日本国憲法は昭和22年5月3日に施行されたのか。年度初めに合わせて4月1日から施行としてもよかったのではないか。

そうならなかったのは、日本国憲法第100条には「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する」とあるからだ。すなわち、施行日が昭和22年5月3日となったのは、公布日を昭和21年11月3日にしたことによる。

公布日が決定した経緯は不明だ。当初は11月1日に公布する予定であったけれども、そうすると施行日が5月1日となり、メーデーと重なってしまうので、3日に延期したとの解説もなされる。だが、これは11月1日を避けた理由の説明にはなるものの、11月3日を選んだ理由としては弱い。11月3日を選んだ積極的理由が存在するはずだ。

当時、11月3日は「明治節」という祝日であった。というのも、この日が明治天皇の御生誕日であったからだ。祝日法によって「国民の祝日」が制定される以前、わが国には以下の「祝祭日」が存在した。  

・1月1日…四方祭
・1月3日…元始祭
・1月5日…新年宴会
・2月11日…紀元節
・春分日…春季皇霊祭
・4月3日…神武天皇祭
・4月29日…天長節
・秋分日…秋季皇霊祭
・10月17日…神嘗祭
・11月3日…明治節
・11月23日…新嘗祭
・12月25日…大正天皇祭

「祝祭日」という名から分かるように、これらは祝賀の日であると同時に祭祀の日である。また、一見して分かる通り、皇室に関係するものが大半だ。

この中で、「明治節」は他の祝祭日と少し異なる。先にも述べたように11月3日は明治天皇の御生誕日であり、その御在位中は「天長節」であった。明治天皇が崩御されて大正天皇が御即位されると、この日は祝日でなくなったけれども、明治天皇を仰慕(ぎょうぼ)し、明治の御代を追憶する契機となすべく「明治節」の制定を求める国民運動が展開され、それを受ける形で、昭和2年3月3日に勅旨(ちょくし)をもって「明治節」が定められた。すなわち、「明治節」は皇室に関係すると同時に国民の思いが具現化した希有(けう)な祝日なのだ。

日本国憲法が制定された時の為政者は、こうした「明治節」を巡る経緯を知っている。だからこそ、どうしても大日本帝国憲法を改正せねばならぬなら、その公布日を「明治節」に合わせることで、過去との継続性を少しでも担保しようとしたのではないか。

明確な証拠がない以上、これは筆者の臆測に過ぎぬが、その後に祝日法が制定される過程で、「憲法記念日」として11月3日を祝日にしようとする日本側に対し、連合国軍総司令部(GHQ)は強い難色を示したと、作家で参議院文化委員長であった山本有三は振り返っている(「文化の日がきまるまで」)から、当たらずとも遠からずであろう。

そもそも、祝日法の第1条には「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける」とあり、日程や名称を定めるに際して日本国憲法の理念にのっとることが強く意識されていた。

そのため、理念に反するとされたものは、世論調査で上位を占めていても「国民の祝日」から除外された。その筆頭は神武建国に由来する「紀元節」であるが、明治の御代を回顧する「明治節」もまた排除された。つまり、「国民の祝日」とは言うものの、制定において国民の意志は必ずしも反映していなかったのである。

最終的には、「憲法記念日」が5月3日とされる一方、11月3日は「文化の日」と名付けられた。先に触れた山本は日本国憲法を象徴する語として「文化の日」という名称について過去との断絶を強調しているが、「明治節」との連続性を意識していた国民は少なくなかったようだ。

昭和26年3月9日、参議院予算委員会において吉田茂首相が紀元節の復活を明言した。同年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されると、神社本庁などが中心となって「紀元節」復活の運動が進められる。

昭和32年2月、「建国記念日」の制定を目指す祝日法改正案が議員立法として自民党から提出され、衆議院で可決されたものの、参議院では審議未了のまま廃案となった。その後、日米安全保障条約改定を巡る混乱を挟み、7回にわたって提出されるも、野党は神武(じんむ)建国に由来する非科学的な祝日であるとして激しく抵抗し、成立に至らぬまま時だけが過ぎていく。

昭和40年3月、佐藤栄作内閣は祝日法改正案を提出する。「敬老の日」(9月15日)、「体育の日」(10月10日)と併せて「建国記念の日」の実現を目指すものであった。この案は会期終了により審議未了廃案となったが、翌年3月に再提出される。しかし、野党の反対は強く、「建国記念の日」の日付は政令で別に定めるとして与野党の妥協が成立し、改正案は可決成立した。その後、建国記念日審議会の答申に従い、佐藤内閣は2月11日を「建国記念の日」と定める。

さて、次は「明治節」である。けれども、そこに至る道のりは遠い。そもそも、占領下に皇室典範が改定された結果、元号の法的根拠は失われており、「明治」という元号に関わる祝日の制定を云々する情況になかった。しかし、昭和54年6月12日に元号法が成立し、この問題はクリアされる。

昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御された後、「明治節」の例に倣って4月29日は「昭和」に関する祝日とすべきとの主張もあったが、竹下登内閣は野党に配慮して「みどりの日」とした。これに対し、「昭和の日」制定を目指す有志が平成5年に「『昭和の日』推進ネットワーク」を結成して祝日法改正の請願署名運動を展開する。

そして、平成10年4月に超党派の「『昭和の日』推進議員連盟」が結成される。その後、平成12年3月に議員立法として自民党・自由党・公明党から提出され、参議院では可決されるも、森喜朗首相の「神の国発言」の影響で衆議院における採決が見送られた挙げ句、解散により審議未了のまま廃案となった。続いて、平成14年7月に自民党・保守新党から再提出され、衆議院では可決されるものの、またもや解散により審議未了のまま廃案となる。そして、平成16年3月に自民党・公明党から提出されたものがようやく衆参両院で可決され、平成17年5月に「昭和の日」が実現した。

「昭和の日」の実現を受けて、「明治の日」制定運動がスタートしたのは平成20年11月のこと。筆者も当初から運動に携わってきたが、平成23年10月には「明治の日推進協議会」を結成し、祝日法改正の請願署名運動を展開するとともに、国会議員に対する働きかけを行ってきた(詳細は協議会のウェブサイトを御覧いただきたい)。その甲斐あって「明治150年」にあたる平成30年5月には「明治の日を実現するための議員連盟」の設立総会が設立された。

ここで強調したいのは、「明治の日」制定は明治時代を一方的に賛美しようというものではないということだ。

明治時代は、西洋列強によるアジア侵略に直面した島国が内乱を克服し、日清戦争や日露戦争という対外戦争に勝利した結果、不平等条約の改正を成し遂げて欧米列強と対等な関係を築き上げた輝かしい時代であるが、影の部分も少なくない。倒幕に伴って成立した新政府の要職は薩長土肥各藩の出身者によって占められる一方、奥羽越各藩の出身者は冷遇された。さらに、殖産興業政策を推進する中で、公害が発生したり、貧富の差が拡大したりする。ただ、様々な困難や軋轢(あつれき)はありながらも、明治天皇を中心として国民が団結し、民族としての自立を守った明治時代を虚心坦懐(たんかい)に振り返る契機としたいという思いから、私たちは活動してきた。

また、「文化の日」の趣旨を全否定しようとするものでもない。議員連盟が検討中の法案には、「近代化を果たした明治以降を顧み、自由と平和を愛し、文化をすすめ、未来を切り拓(ひら)く」(『産経新聞』令和元年10月23日)とあり、明治から現代に至る近代日本の歩み全体を通じて「自由と平和を愛し、文化をすすめる」精神を見出している。戦前のわが国を全否定しようとする「文化の日」擁護の言説よりもバランスの取れた公正な歴史観に基づくものだ。

去る10月30日、請願署名が100万筆を突破したことを報告すると共に、法案の早期提案・早期可決を求める集会が、衆議院第二会館において開催された。集会には、自民党のみならず国民民主党と日本維新の会からも国会議員が出席し、超党派の有志による法案提出という道筋が見えてきた。

令和の御代を迎えた今、温故知新の精神でグローバル化した世界の中におけるわが国のあり方を問い直すためにも、明治以来の近代史を振り返る「明治の日」が持つ意味は極めて大きい。

〔初出・産経デジタルiRONNA〕

PAGE TOP