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【講演要旨】「三島由紀夫と国体論」(上)

三島由紀夫研究会のメルマガ『三島由紀夫の総合研究』(平成24年8月19日)において、去る7月30日に講演させて頂いたものが講演要旨の前篇として編集部の文責でまとめられ配信されていましたので、御紹介させて頂きます。

▼三島由紀夫と私
私が「右翼少年」になったきっかけは小学生の4年か5年の頃たまたまテレビの政見放送で、白髪の老人が髪を振り乱して「土井たか子を牢屋へぶち込め」とか「朝日新聞なんかどうこうしろ」とか極めて過激なことを絶叫していたのを観て衝撃を受けたのが最初であった。この老人とは大日本愛国党の赤尾敏氏であった。以後私は右翼というものに関心を持つようになった。

その後私は筑波大学附属駒場中学、高校に進んだ。この学校は学年の半分が東大に進学するという、いわば戦後民主主義エリート養成所ともいうべき学校であったが、そこで社会科を教える教師は殆どが家永三郎門下の左翼といってもいいくらいであった。(筑波大学の前身は東京教育大学で家永三郎がその看板教授であった。)私は国立の学校であったので、行事には国旗・国歌があるだろうと思っていたが、全くないのには驚いた。当時は冷戦が終結するとともにバブル景気が終息してゆく時代であったが、一方でマルクス主義と資本主義の野合を感じとり、現代社会に対する根源的違和感を感じた私は次第に三島由紀夫に関心を持つようになっていった。とくに三島由紀夫の『英霊の声』は私の心の支えになったといえる。そして私の関心は保田與重郎や新右翼にも向けられるようになった。
大学に進むときに、周りが東大を受験する中で私は『近代の超克』で知られる京都学派に興味を抱き、その京都学派を生んだ京都大学に進んでみたいと思うようになった。ところが憧れの京都大学に入学してみると、現実は全く異なり私は失望することとなる。さて京都大学在学中に私は「国家としての『日本』--その危機と打開への処方箋」という論文で第三回読売論壇新人賞優秀賞を受賞した。ちなみに最優秀賞は長島昭久氏であった。尚この私の論文は『安全保障のビッグバン』(共著、読売新聞社)に収録されている。


▼里見岸雄とは
里見岸雄(明治30年~昭和49年)は国柱会創始者である田中智學の三男として生まれ、のちに里見家へ養子に入り以後里見姓を名乗った。早稲田大学文学部哲学科を卒業し、欧州留学した後に里見日本文化研究所を創設した。里見岸雄は「国体科学」(科学的国体論)を提唱し、その著書『天皇とプロレタリア』(昭和4年)や『国体に対する疑惑』(昭和3年)がベストセラーになった。里見岸雄は大正14年に治安維持法が制定された際、同法が国体と私有財産制を同列視するものとしてこれを厳しくこれを批判した。また天皇機関説問題の際には、天皇機関説と天皇主体説の双方を批判する立場をとった。里見は『国体法の研究』(昭和13年)により立命館大学から法学博士号を授与された。

▼里見岸雄は三島由紀夫をどう捉えたか
昭和45年11月25日の三島由紀夫の自決について、里見岸雄は「三島由紀夫と飯守重任」〔『国体文化』(昭和46年3月号)〕において次のように述べている。「三島由紀夫という人には私は一面識も無いし、その作品もこれまで一つも読んだことがなかった。」しかし三島由紀夫は「文字通りの意味で真の『文士』に価する者」であった。「三島氏は割腹自殺という以上の行為を以てその享受した人生を主体的に完結したのであって、知ったかぶりの利口ぶった第三者的評言を遥に超えた厳粛性、壮絶性がある。」「文学がどうの美学がどうのなどという問題とは何の関係もない彼の国士的生涯の終幕であったのである。」

「彼は一寸おもしろいことを言っている。『国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来てはじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守ることにしか存しないのである』と。だが三島由紀夫の自衛隊観はその皮相の形式美を見てその骨髄の漸く腐食されつつあるシビリアンコントロール下の自衛隊の本質の変化を的確に捉えかねていた。」

「三島が期待したであろう結果が自衛隊内に直ちに現象的にあらわれなくても、精神史的には可成り大きな意義を認めらるべきであろう。問題は自衛隊の決起というが如き即時的反応に重点があるのではなく、三島ほどの高名有能の文士が、憲法改正の悲願の為めに、その生命を供養したと見るべき一点に存する。仏典を見ると、仏道修行の菩薩達が或は生身を焼いて燈と為して供養したとか或はその肉を割いて供養したとかいう話に数々遭遇するが、三島の割腹は、まさに憲法改正という国民的悲願の成就の為めに、その身命を国家に供養したものと解すべきであって、彼の愛国精神の燃焼した最高の姿であったにちがいない。」

「憲法改正を叫ぶ者は決して少くない。然し憲法改正の為めに自ら命を断った人は、三島由紀夫氏を以て嚆矢とする。悲壮な死であった。その精神史的意義は大きいが、三島ほどの情熱と文才と行動力を有った有為の士が、同じことなら自決というような道を選ばず、徹底した憲法改正の啓蒙運動に後半生を捧げてくれたならば、いかに偉大な効果が期待できただろうかと、私は、それを惜しいことに思うのである。」

「ともあれ三島の自決は憲法改正を志す日本国民にとって、一つの大きな刺戟であった。彼の死を高貴あらしめるものは、それが憲法改正の志念とつながっていることであった。彼の生前に知り合えなかったことは残念に思えてならぬ。」

以上のように晩年の里見岸雄は三島由紀夫と面識がなかったにもかかわらず、また後述するようにその天皇観において違いがあったものの、その決起と自決の趣旨と精神を大変高く評価していたことがわかる。

▼鈴木邦男氏の主張について
鈴木邦男氏の最近の著書に『竹中労』というのがあるが、その中で鈴木氏が「三島は里見の影響を受けていると思う。」と書いている箇所がある。

これは本当なのか?里見学派を継承するものとして看過できない表現である。この鈴木氏の本では竹中労氏の発言が以下のように引用されている。

「名前が粋でね、八犬伝や岸打つ波という感じでしょ(笑)、まずそれでひっかかって、いま言ったように内容的には違和感があったのです。ウムと肯綮に当ったのは戦後、それも二十年以上たってからなんですよ。三島由紀夫が東大全共闘と対話した前後、『文化防衛論』を読んでいてフッと里見岸雄が記憶の底から蘇よみがえってきた。手に入るかな彼の本がと思って本棚を見たら、あるじゃないの『天皇とプロレタリア』と『国体に対する疑惑』が。それで読みなおして、1969年に出版した『山谷/都市叛乱の原点』に彼の国体・政体分離論を借用したわけなんです。」〔竹中労『竹中労の右翼との対話』〕

「小説家は、タネ本を出さないのが建前なのです(笑)。『文化防衛論』は里見岸雄理論を下敷きにしている、というぼくの指摘は絶対に間違いないと確信しています。」〔竹中同書〕一見鋭い感性のように思われるが、実証的な裏付けがない。「天皇制〝資本主義〟(……と私たちは呼ぶことにしよう)の経済基盤は、近代的な統一国家の形式に名を借りた、地租収奪の独占による。」〔竹中『山谷/都市叛乱の原点』〕

「佐野・鍋山はいう、『革命の形態は各国の伝統的、民族的、社会心理学的因素によって異なる』、したがって、日本においては、『皇室を戴いて〝一国社会主義革命〟を行うのが自然であり、また可能である……』と。それは、北一輝の『天皇ヲ奉ジテ速ヤカニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ』(日本改造法案・大綱)とする、天皇制〝社会主義〟思想とシャム双生児のように一致する。だが、―革命とは、歴史伝統の肯定的発展であるのか?」〔竹中同書〕

「1969年5月12日、作家三島由紀夫は、東大全共闘『焚祭』の討論集会に出席して、『日本の民衆の根底にあるもの、―天皇制を把握しなければ、諸君の革命も成功しなければ、私の文学もあり得ない』と語った。その指摘は正しい。ただし、三島の把握しているのは、『士』の理念であり、私たちは『穢多』の思想に依拠する。天皇制〝資本主義〟とは、くり返し指摘したように、『差別』『搾取』の権力の二重構造、いいかえれば〝政治・イデオロギー的支配〟〝経済支配〟の混然たる一体としての国家権力であった。……そして今日、三島由紀夫が『士』のイデオロギーから問いかける天皇制?神話?に、革命的学生たちはほとんど答えるスベを知らず、なぜか友好的ムードを通わせてしまうのである。」〔竹中同書〕

鈴木邦男氏が引用する竹中労の論は、「穢多」(=窮民)による革命を夢想するなかで、里見や三島から「天皇制」と「資本主義」や「社会主義」を切り離すという発想のヒントを得たということに過ぎない―あくまで、竹中にとっての里見であり三島である。鈴木邦男氏には他者の発言や論述を全く検証することもなくそのまま引用したり、根拠なくその論が自分の結論であるかの如く書く性癖(軽さ)があるのは残念である。(つづく)

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